「永井豪ミュージアムトーク」に参加して
written by 遊戯王さん




  去る9月27日午後7時より、手塚治虫記念館において、永井豪先生のトークショーが開かれた。これは現在記念館において開催されている「手塚治虫トリビューとマンガ展」を記念して、「魔神王ガロンを書かれた、永井豪先生を招いてのトークショーである。新聞の地方面において、このことを知った私は、ダメで元々、と応募したのだが、それが見事に当たったというわけである。
さて当日朝、お気に入りのデビルマンTシャツを着込んで、家を出た。黒地に原作デビルマンが、どーんとプリントされているやつで、多分ご存知の方も多いと思う。私は不動産屋で、事務員のパート勤めをしている。お仕事するにはインパクトのありすぎる姿だが、社長は所用で留守だったのを知っていたので、これを幸いのいわば確信犯である。午後1時に職場を出、そのままバイクにて直行する。記念館までは13キロ弱の距離なのだが、生まれついての方向音痴なので、少なからずの不安を抱えての出発である。バイクでの道中は、案外何事も起こらず、無事到着する。記念館には駐車場も、駐輪場もないので、お隣の宝塚ガーデンフィールズにバイクを止めた。
  入場券を購入して、いよいよ会場であるアトムビジョン映像ホールに入る。開場直後に着いたはずなのだが、もう席はほとんど埋まっている。席には私たちと同年代だけではなく、若い人も、かなり年配の方もいる。私はごく近くからの参加なのだが、遠くは広島や静岡から駆けつけた方もいるとか。

■手塚先生が結婚式をすっぽかした!? 

 記念館の村上館長から、軽くはじまりの挨拶があってから、お待ちかねの永井豪先生の登場である。私が先生を見たのは、手塚先生のご葬儀に出席されているのを、テレビにて拝見して以来である。あの時先生は、「親父を亡くしたように悲しいです」と言っておられたのを思い出す。今目の前にいる永井先生は、その頃に比べると、髪に白いものが少し目立つが、笑みを絶やさぬ優しい方であった。先生が入られる前に、カメラ並びにビデオ、音声録音は禁止されている旨の説明があったのだが、不心得物が一人、フラッシュを光らせてパチリとやったので、先生思わず苦笑いをしておられた。

  トークショーは、司会役の女性と先生、それに手塚プロのしんみひでかず氏の3人で進められた。まず話の初めは、永井先生と手塚先生との、出会いの話であった。永井先生は手塚先生の大ファンであった由で、手塚マンガとの出会いは、4才の頃、寮生活をしていたお兄さんが帰宅土産に買ってきた「ロストワールド」「メトロポリス」「ファウスト」「拳銃天使」の4冊の本であった。永井先生はその中から「ロストワールド」を選ばれた。まだ字も満足に読めぬ年から、繰り返し何度も何度もその本を読まれたそうである。その後、先生は、石ノ森先生のアシスタントを経て、22才でデビュー。実際にあって話しをしたのは、出版社のパーティーの席であったそうだ。手塚先生とどうしても話しがしたかった先生は、手塚先生を見つけると駆け寄って、ロストワールドのことなどを話そうとするのだが、手塚先生は、昔の作品よりもこれから書くマンガのお話を、熱っぽく話されたとか。永井先生にとって、手塚先生はもう神様みたいな人で、会うといつも緊張してしまったそうです。手塚先生の作品がなかったら、おそらく淋しい子供時代だったろう。手塚先生の作品があったからこそ生きてこられた、とも言っておられました。
  手塚先生との面白いエピソードとしては、本宮ひろし先生の結婚式の時、席が偶然隣同士になったのだとか。その時、手塚先生は「漫画家同士の結婚式は良くないよ。」とそっと言われたというエピソードを披露してくれました。又、「もっと短編を書いたほうがいい。」と言ってくれたとも。直接アドバイスを頂いたのは、ラッキーだったと言っておられました。そこでしんみさんからもエピソードの披露がありました。永井先生ご自身の結婚式に、手塚先生を招待したのだが、見事にすっぽかされてしまったのだとか。しかし石ノ森先生はもっとひどい目にあっていて、やはり結婚式に、こちらは仲人をお願いしていたのだが、なんと仲人をドタキャンされたのだとか。結婚式は急遽とりやめとなり、日を代えて行われた、なんてこともあったそうです。最も、すっぽかしたおわびに手塚先生は永井先生と奥様をレストランに招待したのだが、ここでも永井先生は緊張してしまい、ろくに話もできなかったので、永井先生が怒っているのだろうか、と手塚先生が心配されていた、ということなので、石ノ森先生にも何かお詫びはあったのでしょう。

  永井先生の好きな手塚作品は、との問いには自分は手塚マニアだったので、どの作品も大好きで、とてもどれか一つには決められない、との事でした。男兄弟の家庭だったので、少女マンガが手に入りにくく、「火の鳥」や「リボンの騎士」などは苦労して手に入れたそうです。ただ、「ロック冒険記」には思いいれがあるとか。当時のマンガは、残酷なシーンはご法度だったのだが、このマンガでトンナンシャーペーなる人物が死ぬシーンで、手塚先生が突破口を開いてくれたので、多くの漫画家が手を叩いて大喜びしたのだという事でした。


■永井先生が続編を書いてみたい手塚漫画は…!?

 ここら辺で、話はそろそろ本題に入ります。トリビュートマンガに、ガロンを選んだ理由についても、話されています。手塚マンガはアトムなど、割と小さなキャラクターが活躍するものが多く、その中でガロンは異色の作品。永井先生は巨大なキャラクターが好きなので、ガロンを自分なりに描いてみたかったのだそうです。ただ、手塚マニアの自分がモロに描くと、作品に入り込みすぎて、永井豪らしさがでないので、パロディにして、手塚キャラ総登場となったのだそうです。何とマンガの中には手塚プロの人たちもでてくるのだそうです。一人はしんみさん(自衛隊員)、もう一人は手塚プロの社長(自衛隊駐屯地の地名)、あと一人隠れているそうですが、それは皆さんが探してください、と言っておられました。
  途中で雑誌が終わってしまって、すべてが完結はしていないのですが、一部書き足して、単行本化されているようです。もし続きが書ければ残りの展開は、との問いには、漠然とは考えている、と答えておられました。ラストシーンは、マグマ大使が登場、そしてオリジナルのガロンも登場して、三つ巴の戦いにして見たいのだとか。ぜひ実現するチャンスを待ちたいと思います。
  この話で苦労したのは、岸リボンというキャラクターだとか。特殊な設定なので、いつこの話をだそうかと迷っていたら、雑誌が終わってしまったのだそうです。手塚作品は、どれも社会性が強いので、それを出すようにも心がけておられたそうです。 又、永井先生は「ブラックジャックALIVE」にも参加しています。これは、他のトリビュート作品に、似ているブラックジャックがいないので、そっくりに書いてみたかったのだとか。

 今後チャレンジして見たい作品、という質問には、続編を書いてみたいのが、「どろろ」という答えがかえってきたのには、ちょっとびっくりしました。題名が「どろろ」の割には主人公は百鬼丸なので、成長したどろろが、女剣士として妖怪退治をしながら、行方不明の百鬼丸を探す、というストーリーにしてみたいそうです。ここで、会場に用意されたホワイトボードに、どろろの姿を描かれました。髪や衣装は百鬼丸風の女剣士で、本体は「ハレンチ学園」の十兵衛のイメージでしょうか。これまた、ぜひ実現していただきたいものです。


これが、永井版どろろだ!永井先生から特別にお目こぼしをいただいて撮影したものなのだとか。やっぱり永井版はナイスバディ♪ですね。

 ここで、キャラクターのネーミングについての質問がありました。キャラクターの名前は、なんとなく思いつく事が多いそうです。人の名前を付けるのは好きだし、キャラクターの性格にマッチするように、それでいてあまりない名前を考えながら、つけておられるそうです。漢和辞典で面白い字を探したりすることも多いそうです。その中から、あまり難しくない字を選んでつけたりもしているそうです。
 
  手塚先生や石ノ森先生から受け継いで、未来の人に受け継いでもらいたいものは、との問いにはマンガの楽しさを上げておられました。マンガは遊びなんだから、遊びの気持ちを忘れないようにして欲しい。心の余裕がないと楽しめないし、(描いている自分も)最終的には娯楽でまとめ上げたいと思っている、と言っておられました。

 マンガのアイディアが浮かぶのは、ケースバイケースといっておられました。突然あるシーンが浮かぶことが、比較的多いそうです。手天童子では、赤ん坊をくわえた鬼の絵が浮かんできたそうです。年齢層の限られる雑誌の場合は、自分の子供の頃を頭に思い浮かべながら、朝起きてからご飯を食べ、学校へ行き・・・とシュミレーションしていくと、考えがまとまってくるのだそうです。また、いたずら書きからキャラクターが生まれることもあるとか。どちらかというと永井先生は、ストーリーよりもキャラクター作りを、重視されておられるようです。


■永井先生、自らのルーツを語る!


 漫画家になろうとしたきっかけについても伺いました。子供の頃から、漠然とは思っていたそうです。学校の成績は、元々は悪いほうではなかったのだが、何故か高校では全く勉強をしないことに決めていた永井先生、お蔭で卒業する頃には、ビリから2〜3番といった具合で、大学受験には失敗してしまったそうです。上京して、予備校に通うようになりますが、夏休み前に、お腹をこわしてしまいます。お医者にも行かず、放っておいたら、一ヶ月も下痢が続くような状況でした。上から二番目のお兄さんにそのことを話したら、「それはガンだよ。お前もあと三ヶ月ぐらいで死んでしまうよ。」といわれ、大変なショックを受けたのだそうです。すっかり自分は死ぬんだと思い込んでしまいました。自分の家族は仲の良い一家だったけれど、ひょっとして自分が死んだら誰も自分の事を覚えてくれていないのではないか、と思い、何か自分の生きてきた証を残したいと思ったとき、自分にはマンガしかない、と思い至ったそうです。ちなみに体調の方は、単なる腸カタルで、薬を飲んで2〜3日もすると治ってしまったとか。

 それから一年くらいは、マンガを描いては出版社へ持ち込む日々が続いたが、当時は新人の漫画家がデビューしずらい時代で、全く相手にされなかったのだとか。数少ない新人は、有名な漫画家のアシスタントを経験したひとたちだったので、永井先生は、それならぜひ手塚先生のアシスタントになりたいと思い、出版社に頼んで会うためのアポを取ってもらったそうです。さて翌日は、手塚先生に会うという日の夜、永井先生は夢をみたそうです。それは手塚先生の家の庭に、小さな小屋があり、その中から石ノ森先生が手招きをしているというものでした。変わった夢だな、と思いながらも手塚先生の所へ行くが、その日手塚先生は、急な出張で不在で、会えずじまいだったそうです。その翌日、弟の同級生の誘いで石ノ森先生の所へ行くことになり、結局それが石ノ森先生のアシスタントになるきっかけになったのだそうです。予知夢、というのでしょうか。なんとも不思議な夢の話です。手塚マニアの自分が、手塚先生の所へ行っていたら、きっと自分のマンガは(手塚先生のに)似過ぎてしまっていたので、自分は石ノ森先生の所へ行って、良かったのだと思うと言われていました。

 マンガを書くに当たっては、直感、というか、自分のなかから湧き出てくるものを大切にしたい、といっておられました。最近の編集さんは、そこら辺をわかってくれる人が少なくて困っているのだとか。
今後の活動については、暖めている作品はいくつかあるけれど、ここでは内緒、とのことでした。初期の作品「ロストワールド」のリメイクをしたら面白いだろうかも、といっておられました。後期の手塚先生の雰囲気を生かしつつ、完成度の高いものにしてみたいそうです。又、絵物語の作品(黄金のトランクなど)をマンガに作り直しても、面白いなとも言っておられました。マンガに対する意欲は、ますます旺盛で、すごいバイタリティだなと感心しました。

 最後に永井先生にとってマンガとは、という質問でトークショーは締めくくられました。自分にとっては、生活の一部であり、生きている証明でもある。自分はマンガを書いていないと、精神のバランスがおかしくなってしまうので、暇があれば(仕事とは別に)趣味として書いている。自分としては、漫画は必要な存在です。

 トークショーは一時間にわたって、行われました。今回のトークショーに参加できて、私は改めて、永井先生と手塚先生の深いつながりを知ることが出来ました。当時の漫画家さんで、手塚先生の影響を受けていない人は、まずいないでしょうが、永井先生はそれを超える手塚マニアだった、という事も、私には新しい発見でした。個人的に「えらいことになってる」と思った「魔神王ガロン」ですが、あれもサービス精神の一端だったのですね。改めて、漫画の完全な完結を祈ってやみません。永井先生のこれからのますますのご活躍をお祈りして、このレポートを締めくくりたいと思います。

(章題、写真キャプション:アレン)

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